新聞などに投稿してみたいと思っていたエッセイだったが、帰国する前の準備などでばたばたしてしまって、、
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近頃、思わぬハプニングがあって、しばらくの間、足が不自由になる生活を送ることになった。高校時代から20年にわたってきてボード系のスポーツや武道をやってきて、とうとう足を骨折してしまった。毎日の生活を通じて、東京駅には階段が多いことや、ホームとホームの間の乗換を考えながら生活する意識から、東京はまさにバリアーフリーになっているかを、身近な生活で考える機会となった。
去年から、私は、日本の中央政府の行政庁、裁判所、国会で研修しており、たまたま足を骨折した次の日から、東京高等裁判所での研修が始まる予定であった。その日の朝のこと、東京駅で山手線から降りて、ホームの逆方面までいかないとエスカレータがなく、通常の出勤の流れより余計10分をかけて、丸の内線の改札を通って出勤の終点駅へ向かった。霞ヶ関駅のホームで降りて、改札口までエレベーターで上がって、裁判所へたち向かおうとしたところ、日本の”バリアーフリー”の現状は、まだまだ厳しいものだと、日本の司法の中核のところでわかった。使えるエレベーター、エスケレータもなく、ギプスで固定した足の松葉杖で階段を上がるほかないことがわかった。普通、蔵売僧の方はどうしているかと駅の方に尋ねたところ、予め連絡をしておく方は駅の従業員が運んで行っているそうです。それは出るときのことで良いとしても、出先で連絡が出来なくて戻ってきた場合はどうなるかと訊いたところ、斡旋とした表情。病院で外科医院の先生に言われたことを突然思い出した。私が電車や公共交通手段について質問したところ、タクシに乗った方が良いと、質問に答えないで話してくれた。
しかし、2ヶ月以上に亘る松葉杖の生活を終えたところ、東京の施設はいろいろと足が不自由な方に対して厳しいと実感しているが、東京に住む”東京の人”のマナー、言って見れば文化の方が気になる点が多い。
初めて松葉杖で出勤した朝、駅に向かって歩道の左の端っこを歩いていると、反対方面から歩いている人は、あらとあらゆるところから歩いてきてぶつかってきていると、なにかルールを間違えて歩いているかと気になった。しかし、去年から歩いていた歩道にてのルールが変わったということがなく、如何にもルールを守っていない人が多いことに気づいただけのことだった。
私が左通行の歩道で歩いていても、時間帯などによって歩く人が多い方が歩道の”車線”を多く使ってもいいという暗黙の了解があっても人の迷惑になっているはずはないと自分の頭の中で再確認して停まった。しかし、左手に面している壁に沿って左側の「一車線」で一所懸命とぼとぼと歩いている松葉杖の人でさえ、平気でぶつかってくる人がいることがわかった。
群れで歩道を歩く人を抜けて、やっと駅に入ってほっとしていると、今度、電車に乗ろうとすると、先に並んでいても横から人がはいることもあった。しかし、それよりきになることは東京の電車に乗ってからの文化。
3ヶ月近く松葉杖の生活をして毎日2回電車にのって、毎月20回くらい通勤するということを計算すると120回くらい松葉杖に頼りながら電車に乗ったことがある。その中、席を譲ってくれた人、たった5人しかいなかった。毎回、車両の優先席のある場所を探して、電車にのってから慌てて電車が動き出す前まで席の近くまで行っても、ブロンドぱつに染めたお姉さんでもスーツ姿の若いお兄さんの前に立って、”席を譲っていただけませんでしょうか”と訊いた。
聞かなくても180なんセンチもある外人が松葉杖で入ってきて、座りたいだろうと思わないのか、いえ、思いやらないのかと思う。この紋は目に張らぬのか。優先席を電車で設けるとのはなしが最初出てきたときに、多くの人が反対したと聞いている。電車の全席は思いやりで優先する席ではないかとの説得力がある議論があったそうだ。どうやら、全席のどころか、今の東京の電車には優先してくれる席がそもそもないと経験している。
東京は日本の代表に掲げられているが、これは私が習った思いやりの日本ではない。今でも地方へ行くと、若い人は言われる前から席をまずたって譲ろうとすることが礼儀だ。相手がどうですかと言わせるところまでのことでさえ、失礼かと思われる場合もある。電車が動き出して倒れそうになっている人に対して、「座りますか」と聞いても、もういいでしょうと思われることは当然あるかも知れない。
若い人が座っていいもか。中年の疲れた人が座ってもいいか。妊婦、足が悪い人、年配の人だけが座ればいいということではない。電車に乗ったら、自分の世界に入って、人を見ぬふりで無視するようなルールではない。自分の見回りの人を思いやりながら生活することを訴えたい。
今回はこの足の骨折で思ったことにかぎるわけではなく、東京、とりわけ電車を乗る生活は、地方と違うと感じるところが前から多かった。電車を乗りながら「お天気がいいですね」、「すてきな帽子ですね」、「今日すいていますね」
などの簡単な挨拶でさえ交わしたか。今、挨拶を電車に乗っている隣の人とするとキチガイか。私はそう思わない。しかし、あんまりに近いところで存在が遠くになってしまった東京の生活を考えた方が良いか思う。私が米国の田舎で生まれながらこの日本で暮らしてきた一年を考えるとたくさん良いことがあった。しかし、選択があれば、日本の”田舎”と言われる違う都市で過ごしたかもしれない。それは、いろいろあるが、すくなくても東京にいながら、日本にいるような気がしないことが多い。東京を時々出て、東京の人も昔のような日本を一緒に経験されるのはいかが。
今年の「父の日」は、近所の友人にヒンズー教の神社へ誘われて、異文化の差を感じながら、改めて家庭を大切にしたいという気持ちを抱きました。
ヒンズー教の集まりへ参加するのは、初めてでした。インド出身の人がほとんどで、女性は色鮮やかなサリーという伝統衣装の姿が多くて、男性は、インドの暑苦しい夏に最適なうすい綿の洋服の人が多かったです。神社へ入った瞬間は、衣服と神社の飾りのカラフルな雰囲気が印象的でした。
礼拝が始まると、伝統楽器のタブラ太鼓やエレクトーンから音がアンプ付で大量に流れ出しました。最初は、音があんまりに大きかったため、一緒に連れて行った娘のことを心配しましたが、インドの特徴的なパーカッションの振動に揺れだして、ヒンディで歌いだす人の声になんらかの安らぎを感じ出しました。なれない言葉の詠唱をしばらく聞いていると突然止まったことに驚きましたが、途中でのポーズに全然違和感も感じないような、リズムによくのって音楽が止まって、グルの説教が始まりました。
グルの説教は最初から、父親であることについて、様々なストーリーを中心にした家族にとっての父の存在や、父としての役割を考えさせるような話に集中しました。友人は説教が30分で終わるようなことを言っていましたので、その時間を過ぎてきてから、私は引越しの準備などの仕事が家で待っていることが心に浮かび、すこし集中しにくくなりました。しかし、それでも思い出に残るような話が多かったです。以前、聞いたことがあるストーリーは多かったですが、話のもって行き方やちょっとした言い回しの違いで新鮮に聞こえて、こころまで響きます。
まずは、金箔の紙を破る娘さんの話からでした。娘は、お父さんが大事にとっておいていた金箔の紙を破ってしまいまして、娘がお父さんにとことんに怒られます。しばらくしてから、娘はその金箔の紙で作った箱をお父さんに持っていてプレゼントします。お父さんがその箱を開けると、中が空っぽだということに気づいて、空っぽの箱をプレゼントする娘に腹が立って、怒りに落ちてしまいます。娘は謝りにもう一度お父さんのところに戻りました。なんで空っぽの箱をプレゼントしたかとの質問に対して、彼女はお父さんに空っぽではないと答えます。”パパ、この箱は私からのパパへのチュウと愛で一杯でしょう。パパ、見えるでしょう。”と答えると、お父さんが涙を零してしまいます。
私はせっかちな性格を持っている欠点を見直すよい機会になりました。引越しの準備などで、家庭内はテンションが高くなっていることに少し注意して、家では気を静めるようにしたいという気持ちになりました。
最後の方は、1時間も時間オーバーして、かなりあせってきました。最後の話は、仏が最初に老いや苦難を経験する話でしたが、よく知っているつもりの話でもあったので、早く終わってくれないかとの”せっかち”な気持ちを抑えようと頑張っていました。家の地下に物者がまだまだなくなっていない状態が目に浮かびながら、グルが仏教でもっとも重視する「無の心」(物や人に愛着を持たない話、DETACHMENT)の話に入りました。なかなか無くならない家の中の物のことを考えながら、あの人にそれを譲ろうなどと、物の整理のことを気にしている気持ちが一気にすっきりして、”もういいでしょう、ものを全部GOODWILLへ持っていこう”と決心がつきました。もったいない文化で育った私にとっての必要な知恵、助言は、私が若いころ通っていたカトリック教会ではなくて、初めて行ったヒンズー教の神社で承ることができたという、ちょっと不思議な父の日でした。
Ok, I’m not happy. I finished my first day of work at the Ministry of Communications of Japan–my first day of work in Japan on my Mansfield Fellowship, and sat down to write a nice English blog… for everyone complaining about the headache inducing Japanese articles… Only to find the entire /public_html directory containing all my web content had disappeared..
Earlier this year, I broke down and moved the website to a hosting company when my “broadband” connection became increasingly flaky.
Now the hosting company has a catastrophic data failure.. with no backups.. and I’m still unpacking. Arg..
Well, it was a good time to clean house at nihonlinks.com anyway..
平成5年から9年までの4年間、私は金沢で仕事をする機会に恵まれた。公私において充実した毎日で、自分が成長したという認識を得られたこともあり、次の人生に踏み出すために、私はしぶしぶ金沢を離れた。8年前のことである。
アメリカ帰国直後、サンフランシスコに居をかまえ、インターネットの「高度成長時代」を体験。技術的知識をふんだんに学んだが、ビジネスや政治、さらに技術産業を統制する「ロー(法律)」というものに目を奪われた。そこで法科大学院(ロースクール)に入り、弁護士資格を収得し、連邦政府の公務員の仕事に就いた。そして今年、政府の派遣で一年間日本の中央政府で研修を受けるために、8年ぶりに日本へやってきた。霞ヶ関に着任する前に、金沢で6週間の研修もあるため、「第二故郷」の金沢への里帰りできた。
「8年ぶりの金沢っていかがですか」とよく訊かれるが、なかなか一言で表現しずらい。答え始めると、8年前の自分自身を思い出しながらこれまでの道を振り返り、「人生とは」という硬い話になりがちだ。
8年前と比べて、金沢は風景が多少変わったが、古き良き金沢に変わりはない。幸いにも大きな地震や大火などの自然災害を何百年も被ることなく、第二次大戦の空襲も回避した金沢は、武家屋敷や寺町、兼六園がそのままの姿で残存している。確かに金沢西駅の近くには、県庁などと、高層ビルがたくさんできてきて立派になった。その半面、金沢西高校がむかしポツンと田んぼに囲まれていたような風景が失せ、すこし寂しい気持ちにもなる。郊外に商業店が増えて便利になっている中、小さすぎも大きすぎもしない金沢が今後、どういう町に育っていくのか眺めていきたいと思ってもいる。
8年前の滞在のとき、県の仕事で県内のいたるところへ行く機会に恵まれ、石川県の魅力をふんだんに満喫した。しかし今回、昔、目が通わなかったところに新しい発見をした。通勤に使っていた道を自転車でゆきながら、わき道をチラッとみると、初めての風景がそこにあったりするのだ。
過去8年で、金沢が変わったというより自身が変わったということの方が多い。普通であれば、生活水準や性格に大きく変化があるだろう。私の場合は、二人の子供が生まれ、彼らの喜んでいる顔を見る幸せを覚えた。スキルをレベルアップしたことで政治・経済ついてはもちろん、世界を見る目も変わった。日本文化を見る目も少し変わってきた。
私は昔から、日本文化に強い関心を抱いていた。バスケットボールや野球をテレビで観るより、能楽の謡と仕舞の稽古、琴の稽古を好む方だった。
12年前、すでに謡本を読んでいたが、今になって本当の意味が少しずつ理解できていると思う。私は能楽が日本の審美論、歴史、仏教などの様々な古典文化を織り込んでいる点が、たまらなく好きだ。深く理解しはじめると、観賞しているときに必ず新しいものにふれることがある。能を取り巻く知識がかなり問われることもある。しかし、その知識によって、以前よりも興味深く感じることになっていると最近、痛感している。
以前、県の仕事していたとき、県主催の日本文化日本語研修で来ていた留学生に陶芸、茶道などの体験させるため、同行したことがある。しかし、自分では一度も体験したことがなかった。今回、以前指をくわえて眺めているだけで、ずっと体験したかった茶碗作りができた。そこで有名な陶芸家の先生に、茶碗の審美論について丁寧に語って頂いた。武士が嗜んだ茶道、さらに茶碗の形状の違いで飲み方も違ってしまうといった奥の深さ、茶碗をみる喜びなども教えて頂いた。今回、茶道を初めて体験してみて、先生が口にされた「武士の茶」という言葉が頭に残った。さらに、偶然にもそこで飲んだのが「武士の茶」というお茶だった。やはり武士といえば、どこへ行っても一曲謡を歌わないで帰ることがない人たちであったはずで、能楽マニアックの私は「武士の茶」と妙な関連があるように思えてならない。
それで思い当たったのが「お茶時」という儀式である。お茶を飲んだ武士が、「肴」の代わりに謡を一曲歌ったということだ。もし私が昔から謡の稽古をしたことが無く、茶碗について多少の知識もなかったならば、その話はまったく面白いと感じなかっただろう。
そこで、人生のコツをひとつつかめたような気がする。なぜ人口2千5百人しかいないようなアメリカの片田舎からでてきた者が、石川県でこういう貴重な経験をしているのか。東京の霞ヶ関で一年間日本の中央政府で研修することができるのか。それは一つひとつのチャンスを見逃さないで、小さな知恵を重ねて活かそうという心得が多少なりともあったからだと思う。
最近、「semanticweb」という情報処理用語がインターネットで流行っている。知識や経験というのは連結してこそ、累積してこそ濃くなるという意味である。
人生で言えば、昔の自分があってこそ、今の自分がある。簡単なことである。決まり文句かもしれないが、知識を身に付けることは、人生を楽しむためのものに違いない。いや、道具であり、言葉は特にそうだろう。
言葉をマスターするのは、どれだけ難しいか、日本で英会話の勉強で頑張っている方であればわかるはずだ。しかし、言語は道具に過ぎないとも言える。自分の目的に見合った使い方さえできていれば良いようにも思える。例えば、一本の木を植えるには穴を掘らなければいけないが、だれも「スコップを上手に使えるようになりたい!」と努力などしない。どんなにシャベルの使い方が上手になっても、その目的は穴を掘ることにしか過ぎないからだ。
しかし、この例を選んでしまったことでさえは、私がまだまだ未熟なものだと表している。日本3名園の一つである兼六園で、何百年に亘って貴重な役務を果たしてきた植木の職人さんにとってみれば、木がよく育つには、穴を掘ることまで、コツがあるという。さらに、昔植木さんは謡を歌えながら仕事をしていたとも言われている。だから、言葉は道具にしか過ぎないともいえるかも知れないが、やはり、その道具には、手法、日本流で言えば「方」というのもあるに違いない。
言葉は、ひとつ覚えると違う世界が見えるようになると言えるかもしれない。少なくとも、私が始めて18年前、福井で日本語に触れてから、自分の人生がすっかり楽しいものになった。何かめでたい気持ちでさえある。鶴亀か高砂など、一謡いかがなものでしょうか。
私たちは60年築の古いデュープレックスといわれるタウンハウスに住みだしてから3年もなりますが、今年の夏から日本へ一年在住することになりました。これを機に、家を貸すことにしましたので、最近壊れてきた洗面所のシンクなどを取り替える作業に力をいれています。最初は古くなったシンクのフォーセットと洗面台だけを取り替えようと思っていましたが、表面だけをきれいにするだけで終わるようなプロジェクトではありませんでした。表面を直すには、かなり深く掘り下げなければならなかったのです。
洗面所に入ると狭いところではありますが、40年代のクラシックの雰囲気があります。その雰囲気を壊さずに洗面台とそのフォーセットだけを取り替えようと思いました。洗面台には、50年以上の形跡がいろいろと立つようになっています。錆って来たところもあれば、長年石鹸をおいた場所がへこんで、きれいな塗り物のようなやや青味をおびた淡灰色になっているところもあります。フォーセットは多少のくせがあっても、まだまだ使えそうで、捨てたらもったいないようなものです。アメリカの鉄工業が生み出した頑丈なこの洗面台は表面の欠陥さえ無視すれば、もう50年でも使えるのではないかと思えるものです。
新しい洗面台とバニティといわれるキャビネットを設置して、配水管と下水管を繋いで水を流してみると、あちらこちらが漏水していることがわかりました。配水管と洗面台の間を繋ぐ安全弁は、鉄鋼製のものではなく、安い金ので洗面台表面ほど長年耐えることができないようです。安全弁ほど頑丈なものが必要なものはないと思います。
安全弁が壊れていることがわかり、取り付けたバニティと洗面台を全部外しました。安全弁を取り外そうとしたら、壁の奥まで繋がっていくパイプも壊れていることがわかりました。この壁の前に座って、暗い壁の中へ入っていくパイプを見ながら、一瞬、どんな怖いものが壁の中に隠れているかを思いました。でも、徹底的に直そうと決心しました。ホームセンターへまた足を運んで、あらゆる必要な部品を揃えました。壊れたパイプを外して、新しいものを付けましたが、作業はそれでも終わりませんでした。下水管は奥深くまで同じパイプがずっと繋がっているため、きれいに直せるパイプもあれば、やはりどうにもならないプもありました。下水管は、パイプの端のところが錆っていて、ほかのパイプときれいに接続することができませんでした。そこで、古いものと新しいものをどう続接しようかということで、頭を大分悩ませました。
結果的にはきれいに接続することをあきらめました。なるべく、錆びているところを避けて、何とか水が流れるように繋ぎました。この完璧主義者にとっては、これでよしというところがなく、納得するのが苦痛でしたが、そうしなかったら家の生活は止まったままになります。掘り下げればきれいに解決できる問題もあれば、完全に家を建て直さないかぎりは解決できないものもあります。
このことを通して私は考えました。現在、日中、日韓で緊迫する反日感情が、日中、日韓の間の歴史認識の違いが原因でいつまでも収まらないことに似通ったところがありました。日中・日韓の現在の関係が円滑に流れないまま放っておくわけには行きません。暗い壁の中に真剣に臨んで、解決できるものだけでもを解決して、今後は、錆びっている荒々しいところに触れなくても円滑な交流が行えるようにする方法が、探ればあるのではないでしょうか。
初めて社会に出て仕事をする際において、自分自身について知ることが多いのはいうまでもないことです。大学生が「一度、勤めてみないと敬語の使い方は覚えないですよ」等とよくいわれることがあります。それに、日本文化の特徴を表す慣習でさえ、職場でしか経験できないものもあるかと思われます。しかし、日本人らしいと言われる目上の方に対する気遣い、遠慮する傾向や、職場の外部の人と内部の人との接し方も換える等の習慣に付き従わなければ日本人じゃいない、というわけでもない。私は帰国子女の友人や知人からもいわれますが、知識としてあっても、実際、納得できないこともあります。
自分の短所と長所を自覚することと同様に、一個人としてどういう信条を守って行きたいかを再確認することは、社会人としての最も重要なレッスンです。私はアメリカと日本の間で17年も生きて来ました。自らの信条を作り上げていくプロセスの中で、当然日本文化からたくさんのものを取り入れてきました。しかし、日本文化のすべてを受け入れたわけではありません。日本文化とアメリカ文化両方の魅力的な点とそうではない点を見極めて、自分の中に取り入れたい要素と余り取り入れたくない要素に振り分けてきました。そのようにして築いた自らの信条、更にいえば自らの文化で生きて行く決心があってこそ、国際人だと思います。
国籍を問わずに、日本で国際人として勤めようと思うと、様々な問題点が浮上すると考えます。私は国際人が一番苦労するところまたは国際化社会の実現に大きく障害となる点は日本文化の特徴の一つといわれる本音と建前のことだと考えます。和を保つことまたは人の面子に注意を払うのは日本社会で最も重要とされる上、英語でいわれる「ホワイトライ」(直訳:白い嘘、罪のない嘘)は重要な役割を果たします。「建前」を「嘘」と英訳してはあまりに素朴ですが、日本では理由付けの多い人又理屈ぽい人が嫌われることに大きな矛盾があるのでは。つまり建前というものは、そもそも本音を言わずに、理由付で闘争を片付ける一つの社会手段ではないか。決して、建前は闘争解決措置だけではありません。それは日本社会の封建的な体質を表しているのに違いないでしょう。問題の本質を明確にした上で双方の意見を合理的に論じ得ないものは、現代の国際社会でも成功できないと言う意見が最近、司法改革などでも指摘されています。合理的でグローバルな社会になろうと力を尽くしている国にとっては、これは重要な課題でしょう。
私は現にこの建前と国際社会の矛盾で苦労した例があるが、人生に大きな影響を与えた例があります。日本では、雇用条件また仕事内容を明確にしないケースが多いと思います。一定の労働力及び職業能力よりも人の人間性を見て、労働者を雇うことが決して珍しくないです。私はそうして雇われた経験もあります。経営者のビジョンと言われる多少曖昧であるが経営目的を聞いて、それを具体的な経営事業で実現する仕事はまさにエクサイティングでしょう。しかし、日本の建前社会ではいかにも難しいことでしょう。
こう言った状況で成功するには努力の上に多くのコミュニケーションが必要です。どちらがかけても難しくなります。従来ならば、ノミュニケーション(飲みながら会話を交わすこと)等などの人間関係手段は意見交換に効果がありましたが、不景気ということもあって、そういう手段が減って来たと見られます。私でも、経営者が形だけのつもりで語った内容を本気にとって、過去にいろいろと難しいこともありました。こいう期待不一致や外国人雇われの従業員に実質的なポストのないいわれる「飾り外人」というものは建前構造がその根拠になっているのでは。企業の国際化に対する期待に応じえない結果になり、日本で国際人として働くには一番難しく感じる所ではないでしょうか。
80年代に日本が世界第二の経済大国といわれるようになってから、アメリカでは、日本企業の特徴的な経営方法が話題にされている。日本企業の経営方法とは、株式の短期的な増配(配当率、分配金などの増加)などより会社の将来性に貢献する投資や作戦に優先することや、厳格な契約関係に頼らずに長期的な共存共栄を狙い、深い協力をもたらすパートナーとビジネス関係を組む傾向があることなどと言われている。日本のバブル経済の崩壊が始まった80年代の後半から10年以上続いて来た不況を巡って、日本的経営に関する批判的な意見も強まって来ている。「日本的経営方法は、経営方法として失格だ」などと言う言葉も聞こえるようになって来た。しかし、今の不景気から抜け出そうとしている企業は、日本的経営の独特な特徴を生かしながら、グローバルな経済でも成功できるように今まで日本の経営では必要としなかったところも学んでいる。
アメリカの経営者は、日本の経営者が著しく異なった観点から企業経営を導いていることが、ライブドア社のニッポン放送買収を例にとってもわかる。たとえ、どんなMBA(経営学修士)やJD(法科大学院)の大学院生でも、ビジネスロー(会社法、証券法などの法律)入門をとる際に敵対的企業買収対策などを勉強するはずである。しかし、日本の大企業というべきフジサンケイグループの経営陣は、「巧詐は拙誠に如かず」といいながら、拙速な司法対策などで拙守し、教科書通りの買収作戦にやられてしまったことがわかる。海外輸出などで国際化している日本企業を除いて、ほとんどの企業は十分な敵対的企業買収対策を整っていないといわれている。
もちろん、企業買収合併の環境が著しく激しいアメリカでは、買収対策が頻度や確立から考えると当然重視される。しかし、今までの日本の企業経営には、合併・買収が特に問題になかった。通常、アメリカでは、会社が資金調達するためには新株の発行などの増資を行って資本金を増やすが、従来、日本企業の負債金融は、アメリカなら一般的とみられる自己資本調達によって得られる場合より、系列の個人銀行からの融資によって資本を集める場合が多かったと思われる。よって、日本の企業経営はアメリカの株式公開会社での経営ほど、自己資本調達についての知識が問われなかった。
しかし、一方、今の日本企業経営の事情が変わって来たと言うことがあっても、それでも経営とは資本調整・調達だけでは成り立たないということもある。アメリカの経営陣らは、日本の車、家電、半導体などの製造業界からは、優れた品質の商品を作る方法など多くを学び真似ができたからこそ、アメリカが不景気から抜け出せたとも言えるであろう。もちろん企業の厳しい再編成(リストラ)が必要な場合もあるが、それだけでは成功しない例が多いはずである。日本では、多くの経営者や評論家がライブドアの買収作戦を「汚いやりかた」「不公平な取引」などと批判して、ライブドアの堀江社長が経営者として失格だと厳しい意見を抱いているのはおそらくこの「経営はマネだけじゃない」というところからきていると思われる。
今後のメディア企業にかぎることではないが、これからの企業経営を成功するには、企業の本質を考慮した経営作戦が必要だと思われる。その作戦をつくり出すには、従来のやり方も将来の可能性を把握した経営が必要である。少なくてもライブドアの場合は、従来の報道企業と今後のインターネットメディアが融合して、どういうメディア企業の経営が成功できるかという難問を解く負担の過重に苦しんでいくことであろう。